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 韓国ドラマ中心のブログです。ネタバレ内容を含むコメントはあらすじの「きりころじっく3」の方にお願いします。


by kirikoro
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「桃紅旅行」


今日は、関市に。
まずは去年、颱風の到来のため、行きそびれた刃物祭り。(明日まで)
電車の到着時刻の都合でアウトドアナイフショーの開会を入口前で待つことになる。
どんどん売れて行ってしまうものだけに、開会時にはコアなファンが多いと聞く。
たしかに、一緒に待っている人を見ると、テンガロンハットが数人、他にもウエスタンな人、少しオタクっぽい人、独特の雰囲気がある。でも、私たちのようにいかにも一般人(?)という人が半分ぐらい混じっているのだが。
ナイフの実物は、さすがにきれい。
アウトドア用のナイフと言っても、ほとんどが実際に使うものではなく、工芸品として愛でるもの。いいな、と思うものは安くても数万。
ダマスカスナイフも、見た。
ブースのおじさんに模様を出す苦労談を聞いたり、他の客と店の人とのコアな会話を小耳に挟んだり、楽しかった。
やはり、ちゃんと実物は見ておくべきだな。


「桃紅旅行」_d0060962_21514180.jpg
(画像、少しピンクがかっていますが、実際はサンドベージュといった色です)


その後、無料シャトルバスで市役所まで行く。
ここには「桃紅美術空間」という、篠田桃紅という人の作品を展示しているアートスペースがある。
ここで企画展「桃紅旅行」をやっているので回ったわけだが、こんなイベントの日に行ったら人が多くてどうかなあ、と心配していたものの、入ってみると、誰もいない。
連れが言うには「有料だからじゃない?」との事だが、300円だよ。
これを見ないなんて、もったいないことです。
作品数こそ少なかったものの、すごいです。
桃紅は書からはじめて抽象絵画に行った人なのだが、抽象的な作品になっても背後にものすごく大きな世界を感じるのだ。

リーフレットに彼女のエッセイからの抜粋が載っているが、これがまたいい。
以下、リーフレットの抜粋です。

**

 桃紅は幼い頃より書を学び、戦前は、古代中国において高度な抽象化、実用化の洗
礼を受け生み出された文字や、詩人の言葉を使い、いわば共作という形で書として表
現しますが、それは借り物であり、自分の創造した形ではないとして、まだ見ぬ自分の
かたちを追い求めます.
 戦前、自己流の書で初めて開いた個展(昭和15年鳩居堂、東京)では基礎の無い書
「根なし草」と評されます.

「根なし草※抜粋」
今思えば.私の根なしの仮名はあまり上等ではなかったことば分かるのだが、その頃の私は根なし草というあわれ深い言葉が侮蔑的に使われたことで、孤独だと思い、またその思いに酔っていたふしもある。また
 「私の根は、私が今まで触れたすぺてでできている。うちにある軸や額の書も街の看板も、紀元前千年前の甲骨文字から昨日見た道路の標識まで、また文字でないものでも私が生きて触れた全部のものからの影響、拒絶、同感、心酔、取捨、動揺が根になり、平安朝だって根こそぎ否定してないし、それどころか、寸松庵色紙なぞというものは何といい線であろうと思っているが、それだけをお借りしないだけだ」
 上等の古典を基とするやり方もあるであろうが、私には、自他の生をみつめることが出来ればそのほうがデッサンとしてもいいことに思われたし、またまったく単純に、そのほうがたのしく好きなことなのだった。
         ─ 篠田繍紅著『いろは四十八文字』1976年矢来書院 ─


 Γ炎」という字を書いていた。何枚となく書きむだをした。書いても書いても気に入らない。朝から晩まで、何十枚もの反古くほご>に埋まり、筆をとったりおいたり、だが、心に叶う「炎」は一字もできない。
 止めよう、と思うのに、なぜか止められない。くたびれてなげやりになる。筆に墨をふくませることも面倒。かすれればかすれるままにΓ炎」も消えかかる。それでまたやけに墨をしたたらせたり、文字を書いているという意臓もしだいに薄れ、しまいにはただ、点と線を書いているに過ぎないような状態になってくる。
 ふと、「あ、この線は、いい」と、今そこに書けた(書いたのではなくかけたのだ)線に見入る。Γこれは少しはマシかもしれない。こんな自然な線は、今まで私は書けたことがない。これこそいい線いっているのかも・・・・・」
おめでたいことだが、その時ともかくも、少しはいいような気がしたのだ。
 だがすぐに、これは「炎」という文字になっていない、と気付いた。この、長短数本の線と点とがもつれたものを、だれも「炎」と読まないであろう、と思った。
 私はΓ炎」という文字、ひとびとと共有の記号のひとつを書いていたのだ。書いてい
るつもりだつた。それがいつのまにか記号としての約束を忘れていたのだ。
 そういうことば、前にも幾度もあった、私の表向きの意図に筆が勝手に背き、それが私を呼び止めるというようなこと。その時も、「また脱線‥‐」と思ったが、反古にしてしまえない、なにかがそれにはあったのだ。
 「炎」の書は得られず、また書としては通用しないものかもしれないが、あるかたち
がひとつできたことばできたのだ。
           ─ 篠田桃紅著『きのうのゆくえ』1990年講談社 ─


ものすごくかっこいい人だ。
この企画は12月25日まで。
by kirikoro | 2005-10-08 21:55 | イベント | Comments(0)