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 韓国ドラマ中心のブログです。ネタバレ内容を含むコメントはあらすじの「きりころじっく3」の方にお願いします。


by kirikoro
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『きつね日和』春畑茜歌集


『きつね日和』春畑茜歌集_d0060962_902778.jpg


じわじわと心にしみこんでくるような春畑さんの第2歌集
歌集を読みすすんでいくと、ほのかなあたたかさや、
いろんなさびしさ、はかなさに出会う。




 とほき日の葛湯のやうなやさしさに和紙のひかりは机上にひらく

 かならずと希(ねが)ふはさびし天井へのぼりつめたる風船が見ゆ

 にんげんの生(なま)の言葉を聴くのみに地蔵の目見の石に老いたり

 ぎんいろの龍角散の缶まるく睦月二日を鈍くひかりぬ

 墨を得て紙は滲めり やはらかき「夢」の頭上の草冠(さうかう)の影

 乾電池にも寿命あるさびしさやもうあかんねん、さう、あかんねん

 蜜豆のひそひそ話ひそひそと陶(たう)のうつはに生(あ)るるさざなみ


そのさびしさ、あたたかさは、表現の確かさに裏打ちされていることにより読者の
心に入り込んでくるのではあるが、それだけではなく、生き物・無生物にかかわらず
共感する心を持ちながら、どこか、隔てられている実感を持っているのではないかと
思われる、作者の立ち位置から生まれるのではないのか、と思う。

この歌集に窓ガラスがしばしば登場する。


 展示室めぐる秋昼(しうちう)この手には触れ得ぬ磁器や陶(たう)を眺めつ

 菜種咲く外のあかるさ窓を占めひととき暗しわがゆくバスは

 ぺんぎんの泳ぎしのちの水のあを硝子いちまい隔て見てゐる


これは、ほんの一部である。他にも隔てるものとして水面が登場する歌も数首ある。
また、窓から出たとしても


 ベランダの先には行けぬサンダルの赤きは濡れてゆふぐれの雨 


また、隔てるものがでて来るのだ。
かと思うと、こんな歌もある。


 モノクロの映画に雨は降り出して路上の小さき靴を濡らせり


スクリーンの向こうの世界なのだろうが、どうもスクリーンのこちら側に
はみ出してくる感じがある。
きっと「ガラス」は揺らぎつつ、その時々で場所を変えるのだろう。
同じように、絵本の内と外の世界もときに、越境する。絵本の中の三匹のこぶたや
ごんぎつねと現実の今の世界も地続きで存在している。
三匹のこぶたのレンガの家は砲の前に建っているし、ごんぎつねはアメリカで
<間違って>撃ち殺された高校生と重なるのだ。

そして、つながりがもっとも強いと思われる母と子の間にも揺らぎはある。


 何処もみな遠いところに思はれて日なたへ陰へ子の手をひけり


この歌で<子>は母の側にいる。ところが、


 せがまれて作り与へし紙の舟夜の廊下にそを拾ひ上ぐ


この歌の<子>は母の側にはいない。子は簡単に親の傍をすりぬけて行くものなのだ。


 音にさへ母と子のあるさびしさに子音母音を声に鳴らせり


母と子といえばあたたかいものを思い浮かべがちだけれど、そうなのだ。子を持つことは、あたたかいというだけではなく、さびしい。

しかし、隔てるガラスは自分の外にばかりあるのではないらしい。


 あかねさす昼の食堂わが飢ゑは「きつねうどん」と声を洩らせり

 油あげほのぼの甘き香の立つときつねうどんに顔は寄りゆく


自分でさえも遠く感じられるときもまたある。
そして、この作中人物はきつねの化身であるとミスリードされるようにはなっていないだろうか。
そして、そのイメージはこの歌集の最後の方にでてくる、わたしがもっとも好きな歌に、繋がっていく。


 砂の上(へ)に砂の影さすしづけさの彼方に赤し天蓋花は


この歌はごんぎつねの出て来る連作の中にはないが、この歌集の中に繰り返し出て来るごんぎつねと重なってくる。
幾重にも隔てられた向こう側は天蓋花の咲くところ。天蓋花はごんぎつねの歌にくり返し現われていたモチーフでもある。手をのばしても、決して届かぬ場所ゆえにますます美しくかがやく。

ひとりでも多くの方に読んで欲しいな、と思います。

きつね日和
春畑 茜 / 風媒社




 
by kirikoro | 2006-05-08 09:15 | 読んだ本・聴いたCDなど | Comments(0)