じわじわと心にしみこんでくるような春畑さんの第2歌集。
歌集を読みすすんでいくと、ほのかなあたたかさや、
いろんなさびしさ、はかなさに出会う。
とほき日の葛湯のやうなやさしさに和紙のひかりは机上にひらく
かならずと希(ねが)ふはさびし天井へのぼりつめたる風船が見ゆ
にんげんの生(なま)の言葉を聴くのみに地蔵の目見の石に老いたり
ぎんいろの龍角散の缶まるく睦月二日を鈍くひかりぬ
墨を得て紙は滲めり やはらかき「夢」の頭上の草冠(さうかう)の影
乾電池にも寿命あるさびしさやもうあかんねん、さう、あかんねん
蜜豆のひそひそ話ひそひそと陶(たう)のうつはに生(あ)るるさざなみ
そのさびしさ、あたたかさは、表現の確かさに裏打ちされていることにより読者の
心に入り込んでくるのではあるが、それだけではなく、生き物・無生物にかかわらず
共感する心を持ちながら、どこか、隔てられている実感を持っているのではないかと
思われる、作者の立ち位置から生まれるのではないのか、と思う。
この歌集に窓ガラスがしばしば登場する。
展示室めぐる秋昼(しうちう)この手には触れ得ぬ磁器や陶(たう)を眺めつ
菜種咲く外のあかるさ窓を占めひととき暗しわがゆくバスは
ぺんぎんの泳ぎしのちの水のあを硝子いちまい隔て見てゐる
これは、ほんの一部である。他にも隔てるものとして水面が登場する歌も数首ある。
また、窓から出たとしても
ベランダの先には行けぬサンダルの赤きは濡れてゆふぐれの雨
また、隔てるものがでて来るのだ。
かと思うと、こんな歌もある。
モノクロの映画に雨は降り出して路上の小さき靴を濡らせり
スクリーンの向こうの世界なのだろうが、どうもスクリーンのこちら側に
はみ出してくる感じがある。
きっと「ガラス」は揺らぎつつ、その時々で場所を変えるのだろう。
同じように、絵本の内と外の世界もときに、越境する。絵本の中の三匹のこぶたや
ごんぎつねと現実の今の世界も地続きで存在している。
三匹のこぶたのレンガの家は砲の前に建っているし、ごんぎつねはアメリカで
<間違って>撃ち殺された高校生と重なるのだ。
そして、つながりがもっとも強いと思われる母と子の間にも揺らぎはある。
何処もみな遠いところに思はれて日なたへ陰へ子の手をひけり
この歌で<子>は母の側にいる。ところが、
せがまれて作り与へし紙の舟夜の廊下にそを拾ひ上ぐ
この歌の<子>は母の側にはいない。子は簡単に親の傍をすりぬけて行くものなのだ。
音にさへ母と子のあるさびしさに子音母音を声に鳴らせり
母と子といえばあたたかいものを思い浮かべがちだけれど、そうなのだ。子を持つことは、あたたかいというだけではなく、さびしい。
しかし、隔てるガラスは自分の外にばかりあるのではないらしい。
あかねさす昼の食堂わが飢ゑは「きつねうどん」と声を洩らせり
油あげほのぼの甘き香の立つときつねうどんに顔は寄りゆく
自分でさえも遠く感じられるときもまたある。
そして、この作中人物はきつねの化身であるとミスリードされるようにはなっていないだろうか。
そして、そのイメージはこの歌集の最後の方にでてくる、わたしがもっとも好きな歌に、繋がっていく。
砂の上(へ)に砂の影さすしづけさの彼方に赤し天蓋花は
この歌はごんぎつねの出て来る連作の中にはないが、この歌集の中に繰り返し出て来るごんぎつねと重なってくる。
幾重にも隔てられた向こう側は天蓋花の咲くところ。天蓋花はごんぎつねの歌にくり返し現われていたモチーフでもある。手をのばしても、決して届かぬ場所ゆえにますます美しくかがやく。
ひとりでも多くの方に読んで欲しいな、と思います。
きつね日和
春畑 茜 / 風媒社